奈良時代

■奈良時代の熊本市は、どんな様子だったのでしょうか。
■『続日本紀』には、718年肥後守(肥後国司)「道君首名」(みちのきみおびとな)が築いたとされる味生池(あじふのいけ=農耕用灌漑<かんがい>施設、現池上小学校周辺)が登場しています。この首長をまつってあるのが、高橋東神社で、縄文・弥生時代の項で紹介した高橋団地のすぐ近くにある神社です(井芹川と坪井川の合流地点)。
■このころの一新小学校一帯は、人家もまれな草原で、坪井川と井芹川にはさまれた高台に農家が少し集まっていた程度だったそうです。

■ところで、今の県庁にあたるものを、当時は「国府」と言っていました。これが、奈良時代から全国に配置されるようになります。熊本では、国府の設置順について、いくつかの説があります。
■743年に全国で国分寺が建立されるのですが、熊本市の解説版によると、「肥後の国分寺も国府の東に造られ壮大な伽藍(がらん=建物)を誇っていたと考えられる」とあります。その「国分寺七重塔心礎」(礎石)が現在の出水にある熊野坐神社に置いてあります。つまり、この近くに「国府」という町があります。ここが当時の国府(託麻国府)ということになるわけです。ですから、今の熊本県庁とほぼ同じ箇所にあったということになりますね。この後、国府は数回うつることになります。なお、国府の大きさは、約200m四方の中に役所の建物や倉庫、役人の家等々があったと考えられます。
 
(熊野坐神社)      (礎石)
 (←国分寺の布目瓦)   
■なお、昔は川の道筋が今とはちがっていました。坪井川は藤崎台の東側を流れ、白川と合流していました。また、井芹川は横手の方を流れ、花岡山ふもとより白川に合流していました。この白川も緑川に合流して、海へと流れ込んでいました(写真は禅定寺前のJR踏み切りの箇所の橋ですが、この土台も勝手は・・?)。
中世の川の道筋(ここをクリック)
年表
















710年
元明天皇、都を奈良に移す(平城京)

712年
『古事記』完成

720年
『日本書紀』完成

723年
三世一身の法制定
木簡等々により、当時のことがわかる

733年前後
各地の『風土記』完成

741年
国分寺・国分尼寺建立

743年
墾田永年私財の法制定・荘園制

752年
東大寺大仏完成

754年
鑑真、遣唐使と共に来日

757年
養老律令施行

759年頃
『万葉集』・鑑真の唐招提寺完成

760年以後
物価(米価)があがる

784年
長岡京