明治時代

■明治時代の熊本市や一新小学校校区は、どんな様子だったのでしょうか。
■小楠亡き後の熊本は、藩知事として細川護久(もりひさ)を中心に、実学党(実用の学問を重んじ、開国論を主とする)が活躍していきました。つまり、最後の藩主は、細川家13代の韶邦(よしくに)となったのでした。逆に、最初の藩知事でもありました。明治2年に藩知事を中心として、維新の殉国烈士(じゅんこくれっし)をまつるために、護国神社(藤崎台に移ったのは昭和20年)がつくられました。
■ここで、藩と県の関係を整理しておきます。
江戸時代 明治2・6〜4・7 明治4・7〜5・6 明治5・6〜9・2 明治9・2〜
名称 肥後藩 熊本藩 熊本県・八代県 白川県 熊本県
代表 細川韶邦 細川韶邦藩知事 各代行者 安岡良亮県令
 江戸幕府は「大政奉還」により政権を朝廷に返し、天皇は江戸を東京と改め、皇居は東京に移りました。地方でも「廃藩置県」を実施し、表のように変えていきました。

■「熊本は明治維新に乗り遅れた」と言われています。それは、横井小楠の起用ができなかったこと、学校党(時習館を中心とした幕藩体制維持派)が中心であったからです。そこで、明治政府から小楠を役人として任命しました。ここ(明治3年=1870年)から熊本も維新の一歩を踏み出すことになりました。

■なお、明治2年に、新町一丁目に写真館を開業したのが、富重利平でした。現在の富重写真館です。彼の写した熊本城復元の際に、大きな力を発揮しました。柳川藩士の利平は、写真術の開祖といわれる上野彦馬を師として、高瀬(現、玉名市)の細川利永に撮影を頼まれたのが縁で、熊本へやって来たということです。明治5年には、新町三丁目に郵便役所がつくられ、6年からは電信も始まり、当時の人々は自由に手紙を送れ、しかもそれが早いことにびっくりしたということです。そして、電線の下を通る際は、「西洋かぶれをする」といって、頭上にセンスをかざして通った人もいたそうです。「テレグラフ」という電信は、神風連や西南戦争でも大きな役割を果たしたそうです。一方、明治6年には、県令の援助を受け、水島貫之と伊喜文吾の2人が塩屋町で「活版舎」を開きました。この舎から、「白川新聞」を発行し、文明開化に寄与しました。

■さて、その維新の内容として、税の軽減(及びいくつかの税の廃止)をはじめ、時習館と再春館の廃止等々を行いました。熊本城の取り壊しまで計画されたことでした。洗馬(船場)町には、洋学所(外国語の研究等々)が建てられましたが、形だけのものに過ぎなかったようです。
■小楠の甥、左平太と大平は、アメリカから帰国して、洋学校の必要性をときます。この熱意は藩を動かし、ジェーンズをアメリカから雇い入れ(明治4年)、熊本洋学校が現在の第一高校にできます。当時の第一高校のは場所には、以下のようなものが建てられました。

(現在の第一高校)

(当時の配置)

(医学校跡の碑)

(第一高校の正面玄関)

(移築復元された洋学校教師館=ジェーンズ邸)

(洋学校記念碑)

(ジェーンズの机)

(ジェーンズの家族)
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■洋学校のとなりには、西洋医学所も建ち、病院もできました。マンスフェルトというオランダ人を招き入れています。これが古城医学校となります。ここで学んだ人に、徳富蘇峰や北里柴三郎(小国出身で、破傷風菌やペスト菌の研究)などがいます。
■ジェーンズは、「自分は教えない、ただ導くだけだ」「教育は人民の幸福をまし、無学は人民に災いを与えます。教育は国を強くし、無学は国を弱くします」という方針で、英語のみの授業を1人でやったということです。洋学校は4年制(10歳〜15歳)でした。彼の任期は5年で、天皇陛下も授業をご覧になったということです。なお、明治8年の冬休み、洋学校の生徒たち(後に、同志社へ進む)は、キリスト教で日本を救おうと、花岡山で会を開きました。この時、熊本バンドというのが結成され、現在でも会が続いています。

■さて、明治4年、廃藩置県により熊本は、熊本県と八代県となります。明治5年には、熊本県は白川県と改まり、県庁は二本木にありました。6月に明治天皇の九州巡幸があり、熊本へ入られています。竜驤艦(りゅうじょうかん)で小島(写真上)へ来られ、その行在所に泊まられました。お供(約100名)の中で有名なのは、西郷隆盛です。それを迎えたのは、鎮西鎮台(軍隊にちかいもの)司令官桐野利秋でした。翌朝、乗馬され高橋を通り、熊本行在所(新町会輔堂という学舎、現一新幼稚園=写真下)に着かれました。翌早朝から古城医学校、洋学校、鎮西鎮台、成趣園をご覧になられました。2泊の後、また小島より鹿児島へと発たれました。

■明治6年、熊本県は2県が統一され、白川県となりました。県の県令(県知事)として、安岡良亮(りょうすけ=初代県令)が赴任しました。実学党の行き過ぎにブレーキをかけたのが、この県令でした。当時勤皇党(尊皇攘夷を唱える派)は2つに分かれていました。その1つが神風連といって、敬神党ともいい、新政府をみはり、神明に祈ろうというものでした。重要人物は神社の神職につき、明治8年の千島樺太交換、明治9年の熊本バンドの会、同年の廃刀令に断髪令等々のことで、ついに兵をあげました。太田黒伴雄(ばんゆう)を中心に、安岡県令を夜討ちで殺害したりしましたが、熊本鎮台兵の前にくずれ、124名が亡くなりました。桜山神社には、勤皇党の中心だった林桜園(おうえん)をはじめ、宮部鼎三(ていぞう)など、神風連で亡くなった人々の碑が建てられています。

■この乱は10月24日に起こり、ジェーンズが熊本を発ったのは10月7日でした。もし、ジェーンズがいたら、被害を受けていたかもしれません。
 ちなみに、ジェーンズの月給は400円で、マンスフェルトが500円でした。当時、米1俵(60kg)が1円30銭でしたから、高給でした。
 なお、明治8年に、一新小学校はできました。また、明治10年には、古城の医学校後には白川県庁が置かれています。他にも、裁判所、警察本部、熊本区役所(現、市役所)等々もおかれ、熊本の中心であったことが伺えます。

■明治10年(1877年)、西南戦争が起こります。征韓論(朝鮮半島に開国を迫る考え)を唱える西郷隆盛に対し、木戸孝允や大久保利通は反対を唱えました。西郷は政府を離れ、鹿児島へ帰ります。そこから明治政府を倒そうと、西郷率いる軍隊は2月に熊本城へ迫ります。当時、熊本城には、第6鎮台といって、政府軍がいました。熊本城はいきなり火をふきます。天守閣は焼け落ち、火の粉が城下町に降り注ぎ、きっと新町の人々もおそれたことでしょう。これに呼応して学校党の人々をはじめ、数団が兵をあげます。官軍の中心は、谷干城でした。激戦田原坂をはじめ、詳しくは教科書や資料集を参考にして下さい。

(「西南の役回顧の碑」=元城内プール地)

(@「西南の役段山古戦場跡」=井芹川沿い)

(西南の役の碑=YMCAの近く)

(A二の丸広場)

(B鎮台司令官=谷干城)

(C弔魂碑と殉難碑=清爽園内)
(解説)
@2月22日未明、薩軍は段山をとり、ここから熊本城を攻略しようとしました。新町、山崎、高麗門、島崎、段山から城を攻撃しました。一方、籠城軍(鎮台)は、古城、法華坂、藤崎台から反撃し、3月12・13日にわたり、激しい戦いをした結果、薩軍は73体の屍を放り、撤退しました。なお、熊本市の主戦場としては、天守閣内、川尻、花岡山、官軍墓地、二本木神社境内等々です。熊本、特に新町は焼け野が原となりました。藤崎八幡宮は、この時焼けています。それまでは、この地で大祭の放生会(鳥や魚を自然に放したりする行事)が行われていました。
A鎮台側の妻子が、弾丸をさけるため、この空堀の中に非難して、被弾をさけました。中心となったのは、谷干城の夫人等々でした。
B戊辰戦争でも活躍した人で、西南戦争当時は、熊本鎮台司令長官となっていて、籠城策をとって成功しました。薩軍の水攻め(3つの河川をせき止める戦略)等々にもたえました。薩軍同様、熊本隊等々も各地で降伏し、西郷は鹿児島の城山にて自害しました。
Cこれは、神風連の乱と西南戦争での戦没者の霊をまつる弔魂碑と、西南戦争における県民の殉難碑です。この清爽園は、後に歩兵第11団長であった乃木希典(のぎまれすけ)が寄付を呼びかけて、庭園にしたものです。それをさらに、昭和4年、新町の青壮年団の奉仕によって、現在のようになりました。

■なお、ジェーンズ邸(洋学校教師館)は、西南戦争において、敵味方なく負傷者の介護をしたということで、後の日本赤十字発祥の館ともなっています。当時は、「博愛社」といい、熊本で、そして古城にて日本赤十字が誕生したということになります。また、焼けた郵便役所は、11年に新築されましたが、手狭になったことから、16年に現在地に郵便局が建てられました。

■明治11年には、熊本県最初の政党「相愛社」が結成されます。西郷軍についた宮崎八郎らを中心とする民権派の生き残りがつくったものです。13年には、富岡県令が中心となって、新町一丁目に「亡吾会」という会堂をたて、政治家の集まりをつくります。ところが、考えの違うグループ等々があって、14年には全員加わるようにと「紫溟会」(しめいかい)をつくりますが、結局は学校党の人たちだけの会になってしまいます。そこで、相愛社は実学党の人たちと一緒になって、15年に公議政党をつくり、これが九州へと広がり、九州改進党となり、長国寺(写真)がその結成大会の会場となりました。

■その後の熊本は、近代文学の夜明けとなります。まず、熊本隊だった佐々友房は、懲役(ちょうえき)刑のあと、明治12年に同心学舎というのをつくりますが、これが後の済々黌(せいせいこう)となります。次に、熊本バンドの一員である徳富蘇峰(とくどみそほう)は明治15年(1882年)に大江義塾をつくります。弟の蘆花(ろか)は神風連を題材に「恐ろしき一夜」という小説等々を書いたりします。
■明治19年には、文学とは関係ないですが、新町に井野春毅が歯科医院(左写真)を開設されています。
■明治20年、五高(現熊本大学)にやってきたのは、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)でした。「怪談」などを書いていますので、ぜひ読んでみましょう。明治29年に同じく五高にやってきたのが、夏目漱石です。「草枕」(峠の茶屋が舞台です)等を書いていますので、こちらも読んでみましょう。
▼漱石の第3の旧居      ▼峠の茶屋
 
■明治24年には、イギリスよりハンナリデルが伝道師として熊本にやってきます。本妙寺を案内されるのですが、長い石段下に小さな宿屋がたくさんあって、その周辺にハンセン病患者が多くいるのを見ました。この後、リデルは五高近くにハンセン病を治療する回春病院をつくります。一方で、フランス人神父のコールも、島崎で同じく待労院をつくります。ハンナは、かねてより軍艦をつくる資金があったら、救済活動を行うべきだと主張していたそうです。リデルの跡をついだのが、姪であるライトでした。
■同じく明治24年には、門司ー熊本間の九州鉄道が開通しています。一新小学校の西側にあるレールが敷設されたということになります。最初は、高麗門に駅舎がおかれる予定でしたが、住民の反対で春日(現、熊本駅)と池田(現、上熊本駅)につくられたそうです。厩橋(うまやばし)のそばに「熊本電灯会社」がつくられ、電灯もつき、ランプとの違いにびっくりしたということです。

■時は移って、1904年(明治37年)日露戦争が起きます。遠い国でのできごとのようですが、何と、熊本市には大いに関係があります。島崎に、西の武蔵塚の向かい側に、写真のような墓があります。これは、何と日露戦争で捕虜となった兵隊の墓なのです。ではなぜ、その墓が熊本市にあるのでしょうか。それは、日露戦争での俘虜(ふりょ=捕虜と同じ)収容所が市内3カ所(その1つはジェーンズ邸でした)にあったのです。明治39年に、捕虜は長崎から本国へ帰還することになるわけですが、その間、亡くなった人々の墓があるというわけです。
年表
















1868年
明治維新・五カ条の御誓文・神仏分離令

1869年
版籍奉還藩閥政治

1871年
廃藩置県・日清修好条規
福沢諭吉(現1万円札)『学問のすすめ」

1872年
学制発布・鉄道開通・太陽暦の採用

1873年
徴兵令・地租改正・紀元節



(地券)

殖産興業・富国強兵

1874年
民選議院設立の意見書提出

1875年
樺太・千島交換条約

1876年
日朝修好条規・一揆起こる

1877年
西南戦争・自由民権運動



(弾痕の家)


(銃弾跡)




(西南戦争の墓地:田原坂)





(墓碑:薩軍のトップに大きく西郷隆盛と記されています)

1881年
自由党結成

1882年
立憲改進党

1884年
官営工場払い下げ

1885年
内閣制度
坪内逍遥『小説神髄』

1886年
小学校令で義務教育4ヶ年
二葉亭四迷『浮雲』


・1887年

富岡県令が進めた三角西港が完成する。


<県令をまつる石碑>


<明治3大築港の1つ、三角西港>

1889年
大日本帝国憲法
北里柴三郎の破傷風菌の研究


1890年
第1回帝国議会
教育勅語


1894年
治外法権の廃止・日清戦争

1895年
日清講和条約・三国干渉


<日清講和条約が結ばれたところで、下関の春帆楼という場にて行われました。日本代表が旧千円札の伊藤博文、中国代表が李鴻章、11カ条の講和条約が結ばれました。下関条約ともいいます。>

樋口一葉(現五千円札)『たけくらべ』


1901年
八幡製鉄所


1902年
日英同盟

1904年
日露戦争
与謝野晶子「君死にたもふこと勿れ」


1905年
ポーツマス条約
夏目漱石『坊ちゃん』
島崎藤村『破戒』
小学校令改正(義務教育6ヶ年)

1910年
大逆事件・韓国併合

1911年
関税自主権の回復

一新界隈では
・天保6年(1835年)に栗崎京染店開業
・明治5年に新町3丁目に郵便役所
・明治6年に政木そば屋開業
・明治7年に光助開業(肥後象嵌)
・明治10年に文林堂開業(元は細川藩の染物業)
明治18年に松石パン開業(120周年)