平安時代

■平安時代の熊本市は、どんな様子だったのでしょうか。
■奈良時代には、国力の大小で、各地方は4等級(大・上・中・下)に分けられていました。796年には、肥後は農産物産出量で「大国」に任ぜられていたようです。
■奈良時代で述べた託麻国府は、869年7月(『日本三代実録』による)の大水害で益城(益城国府、下益城郡城南町)へ移されます。左の写真がその際の礎石と考えられています。

■934年に飽田郡(二本木、古町周辺)に祇園社(北岡神社の前身)、935年に藤崎台(今は野球場)に藤崎八幡宮もたてられる(『肥後国誌』による)のですが、この時までにここに国府(飽田国府)が移されたと考えられます。この飽田国府には、9世紀中頃、池上町平に池辺寺という寺院もたてられています。

■国府には、当然港が必要でした。その1つが高橋でした。前に説明した高田遺跡からは、平安時代の硯なども見つかっています。

■『枕草子』を書いた清少納言の父親は、清原元輔(もとすけ)という人ですが、この人は986年に肥後守(長官)としてやってきています。その際、この元輔と会ったと言われる女性が桧垣(ひがき)という歌人です。次が有名な歌です。
「年ふればわが黒髪も白川の みづはくむまで老いにけるかな」
■桧垣は、太宰府の役人にもてはやされる程の美人だったそうですが、940年の藤原純友の乱で、家財を失い、白川のほとりに移り住んだのだそうです。桧垣は、室町時代に盛んとなる「能」の代表者、世阿弥の代表作「桧垣」のモデルでもあるのです。写真は、桧垣の塔で、蓮台寺(古町小のそば)にまつってあります。

■さて、藤崎八幡宮は、奈良時代に始まった八幡信仰、つまり放生会に基づいています。放生会とは、生き物を放すという意味で、仏教の教えにそって病気や災いから守ってもらう信仰なわけです。生き物を放すわけですから、池や川、山が必要ですが、藤崎宮の近くは、井芹川も近くを流れ、自然が豊かだったようです。
 祭神は、八幡大神(応神天皇)と神功皇后、住吉大神の3つです。中世(鎌倉〜室町)になると、国毎に一宮、二宮、三宮という神社の格付けが始まるのですが、この藤崎宮が一宮となりました。
 
(藤崎台球場)       (現在の藤崎八幡宮)
年表













794年
桓武天皇、京都に都を移す(平安京)

810年前後
最澄は比叡山(延暦寺)、空海は高野山(金剛峯寺)で、教えを広める

810年以後
大地震・大津波・大洪水・干ばつ・火山噴火(富士山等)等々の災害多し、疫病(天然痘)・飢饉増加、盗賊横行

901年頃
『竹取物語』『伊勢物語』完成

935年
平将門の乱・『土佐日記』

940年
藤原純友の乱

988年前後
国司の悪行、農民に訴えられる

996年頃
清少納言『枕草子』

1002年頃
紫式部『源氏物語』
(現二千円札)

1016年以後
藤原氏の摂関政治

1056年頃
前九年の役

1086年頃
後三年の役・摂関政治を押さえるための院政開始

1156・59年
保元・平治の乱(平氏台頭)

1167年
平清盛太政大臣就任(79年政権をとる)
法然「浄土宗」

1185年
源氏、平氏滅ぼす

(壇の浦古戦場跡)