江戸時代

■江戸時代の熊本市や一新小学校校区は、どんな様子だったのでしょうか。
■熊本城や城を守る仕組みをつくった清正は、町つくりにも力を入れました。まず、古城一帯は、上級武士の屋敷とし、京町から山崎町一帯を侍町としました。また、寺町として長六橋周辺や横手、立田、黒髪一帯に形成しました。そして、町人町として、細工町、大工町、桶屋町、呉服町、紺屋町、米屋町、魚屋町、鍛冶屋町、唐人町などをつくりました。城下町は、T字路や鍵型で通路がつくられ、これは城を攻めにくくするための町づくりでもありました。
■ここに、新町が城下町として完成したのでした。詳しくは、ここをクリックしてください。肥後藩の参勤交代については、ここをクリックして下さい。町名の由来については、ここをクリック!

(福一堂の包装紙より)
■城下町から熊本城に入るのに、法華坂というのがあります(国立病院の裏手)が、ここには、清正の父をとむらうために建てていた大阪の本妙寺をこの坂の上に移しました。法華宗の寺でしたから、この坂を法華坂と呼ぶようになりました。なお、1614年、この本妙寺は中尾山(現在の本妙寺)に移されました。清正の亡骸もここにまつってあります。清正は1611年6月24日になくなるのですが、日遥上人が写経をして冥福を祈ったというのがきっかけで、毎年新暦の7月23・24日に「頓写会」(とんしゃえ=すみやかに法華経を写した法会という意味)として法要・祭りが行われています。もちろん、熊本城近くの加藤神社にもまつってあります。

■一方、清正の母は、聖林院殿室日光大師として、妙永寺にとむらって(写真左)あります。清正は母の肖像(しょうぞう)を自ら彫り、朝鮮出兵の際には肌身離さず持ち歩いたと言われています。なお、近くには、叔父の墓(写真右)もあります。
 2005年、横手の六角堂本覚寺(左)にて、清正の側室、本覚院が埋葬されたとみられる棺(ひつぎ)が見つかりました。

■時は1614・15年、大阪冬の陣、夏の陣が勃発(ぼっぱつ)して豊臣氏は滅ぼされるのですが、清正亡き後の加藤家は参加しませんでした。ところが、家臣が2分して、豊臣家に物資を提供していたことが発覚しました。もともと清正は、豊臣家に恩があり、秀吉の子、秀頼と家康の会見を二条城で取り行う等の関係にありました。これに端を発し、とうとう1632年、武家諸法度により肥後の領地は没収されることになりました。
■上の写真は、「三賢堂」(島崎)といって、3人の肥後を代表する人物がまつってあります。その3人とは、清正、そして後述する細川重賢と戦国武将の菊池武時です。

■この後、領主として熊本城に入ったのは、細川忠利(ただとし)でした。忠利は、肥後入国後、細川家の菩提をとむらうため、竜田山山麓に泰勝寺を建て、そこに細川家初代藤孝(写真左)、2代忠興、同2夫人の墓をまつります。初代は幽斎ともいい、成趣園(細川氏別荘、現水前寺公園=左写真)に古今伝授の間という茶室をつくっています。
■さて、熊本でもキリシタン弾圧が行われています。1637年の島原の乱には、忠利も出向き、天草四郎の首は、細川家の家臣陣佐左衛門によって打ちとられたようです。
■また1640年、宮本武蔵も客分として、忠利によって招かれて、熊本千葉城跡の自邸で1645年に亡くなり、現在は2つの墓があります。東西の武蔵塚で、西の武蔵塚(左)は島崎にあります。1641年、忠利も亡くなり、墓は北岡自然公園内(写真左は枯山水庭園)にあります。
■3代藩主は、綱利(つなとし)です。この時代に相撲の神様、吉田司家を召し抱えたり、小堀流踏水術が起こったりしています。また、一新小学校校区にはないのですが、放牛地蔵といって、自分の父の死を自分のせいだとして、名を放牛と代え、生涯100体以上の地蔵をまつっていったというのもあります。墓は横手町の千原台にあります。写真は高橋東神社にある88体目の地蔵です。

■江戸も後半になると、全国的に様々な問題がでてきて、暮らしも飢饉(ききん)等々があって、苦しくなっていきます。そんな時、細川第8代藩主に重賢(しげたか=写真下は北岡自然公園内にある墓)がつきました(1747年)。質素倹約を重んじ、政治・経済・殖産・教育の面で大改革(宝暦の改革)をなしとげていきました。まず、1755年、二の丸広場内に「時習館」(写真上)という藩校をつくりました。教科書は四書五経で、儒学中心でした。第1代学長は、秋山玉山でした。明治3年の廃校まで全国でも有名な藩校でした。次に1756年、古町に医師養成のための再春館というのをつくりました。薬園(蕃滋園)もつくっています。
■一番の改革は、何といっても、刑法の制定で、諸藩が見本としたくらいです。「御刑法草書」というもので、更生のための「徒刑」(晴天時には土木作業、雨天時には手仕事、刑期満了の後には貯蓄をもって出ることができるというもの)をつくったことでした。
■1786年に、藩はお金持ちの町人が多い新町に、預かり手形(お金の代わりになる札)を発行する事務所(銀銭預会所)を置きました。ところが、商人たちが勝手に札(写真は藩札)をたくさん出したので、お米の値段が高くなり、一般町人はたいへん困りました。1787年には暴動が起き、商家が打ちこわされるという事件が起きました。
 この頃は、元結(まげの元をくくるひも)、墨、線香、筆、絹糸、びん付油(ヘアクリームのようなもの)等の小間物、造り酒屋、饅頭、玩具、はな紙、煙草、茶、綿、弓、時計、鉄砲などの商店があって、家でつくって売っていたそうです。さらに、魚具、乾物、葛、紙、桶、ろうそく、薬などの商店もあったようです。
 なお、寛政5年(1732年)には、次のような資料も残っています(細川家「永青文庫」)。
「新壱丁目より獅子を差出来候処、及中絶、今年迄六十一年に相成候由」とあり、これから61年前の1732年には新町獅子が確立されていたことになります。
■では、新町には、どれくらいの人が住んでいたのでしょうか。1806年の報告によると、次の如くです。
新町1丁目 新町2丁目 新町3丁目 蔚山町 職人町 細工町 合計
545人 796人 762人 429人 548人 1481人 4561人
 ちなみに、この時代の肥後藩全体の人口は、541393人です。細川氏が入った当初は約20万人、幕末には約70万人になっていました。
■なお、1840年頃には、新町に吉田松花堂ができます。肥前鍋島藩の医師、シーボルトの弟子だった初代吉田順碩が「シーボルト事件」後に熊本で「諸毒消丸」をつくりました。現在は、7代目の吉田さんが製造されています。後に、下痢の妙薬として軍にも買い上げられたりしています。

■資料によると、1819年頃には飛脚屋(今の郵便局)は、新一丁目の笠屋藤右衛門という家にあったそうです。毎月14日と24日に飛脚が郵便物を江戸や東京に運んでいたそうで、大阪までで50文(5匁=約16gで)、一貫(=約4kg)で500文かかっていたそうです。今のお金に換算すると、1文は7円50銭位になるそうです。もちろん、これは武士などに限られていたことだそうです。
■最後に、幕末の熊本市です。世は、開国派、尊皇攘夷派、幕府維持派の3つに分かれるわけですが、熊本もそうでした。
学校党 幕藩体制維持で、藩校時習館を中心とする藩の主流派
勤王党 天皇中心の政治にして、外国打つべしという派(林桜園・宮部鼎蔵)
実学党 開国論を主張し、実用の学問を重んじる派(米田是容・横井小楠)
 勤王党の宮部は上京(京都)し、朝廷で兵を集めていましたが、会津薩摩によるクーデター(1862年)で失敗します。宮部も、新撰組(京都にあった幕府の浪士隊)に囲まれ殺されます。
■一方、実学党の横井は「四時軒」という私塾を開き、福井藩から助言者として招きを受けます。ところが、江戸滞在中に、「開国とはけしからん」と肥後勤王党の3人の刺客に襲われ、命からがら逃げ出して、一命を取り留めました。しかし、仲間は殺されたりしました。その後、熊本に帰ってからは静かに暮らしていましたが、勝海舟や坂本龍馬とも会見しています。
■1867年、王政復古の大号令が出されると、小楠は新政府から政府職に登用されることになりました。しかし、小楠もとうとう1869年、刺客により暗殺されました。こうして、時は明治へと移っていくことになりました。
年表

























1603年
徳川家康が征夷大将軍となり、江戸に幕府を開く

1614・15年
大阪冬・夏の陣、武家諸法度



(大坂城)

1619年
五人組制度

1635年
参勤交代制

1637年
島原の乱


(湯島:談合の跡)


(踏絵:土産品)

1639年
ポルトガル人の来航禁止・鎖国完成





(上2枚とも長崎は出島)

1649年
慶安の触書

1687年
生類憐れみの令
松尾芭蕉『奥の細道』・元禄文化

1716年
徳川吉宗の享保の改革(大岡忠相江戸町奉行・目安箱・新田開発等々)



(文政年間に開拓された八代地方の土地)

(下はその他新田開発の跡)









1732年
享保の大飢饉・一揆・打ちこわし

1742年
公事方御定書

1772年
田沼意次の改革
杉田玄白・前野良沢『解体新書』

1782年
天明の大飢饉・一揆・打ちこわし

1787年
松平定信の寛政の改革
本居宣長『古事記伝』

1792年
島原眉岳噴火「島原大変肥後迷惑」

(小島小入り口)

1800年
伊能忠敬測量開始
諸藩の改革進む
化政文化


1825年
外国船打ち払い令

1833年
天保の大飢饉・一揆・打ちこわし
葛飾北斎『富嶽三十六京』・安藤広重『東海道五十三次』

1837年
大塩平八郎の乱

1841年
水野忠邦の天保の改革

1853・54年
ペリーが浦賀へ
日米和親条約

1858・59・60年
日米修好通商条約
安政の大獄(吉田松陰処刑)
桜田門外の変


1866年
薩長同盟
福沢諭吉『西洋事情』


1867年
明治天皇即位・王政復古の大号令
大政奉還・幕府滅ぶ


(細川家のお茶屋跡=島崎:釣耕園)


新町界隈では

・2007年が築城400年記念ですが、新町獅子保存会も400年の伝統を誇っています。
・兵庫屋も300年の伝統を誇っています。